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パールシーとしてのフレディ・マーキュリーの葛藤/『ボヘミアン・ラプソディ』

初鑑賞以来、都合が合えばボヘミアン・ラプソディに行ってるような状態ですが、フレディの家族が信仰するゾロアスター教について調べてから見るとまた違った見方ができたので記事にします。

ゾロアスター教について

アフラ・マズター(ヒンズー教のアスラ、仏教の阿修羅に相当)を最高神に据えた善悪二元論を軸にした宗教です。多神教時代からの神々に明確に序列をつけた世界最古の一神教とも呼ばれ、後に隆盛するキリスト教やイスラム教にも多くの影響を与えた宗教です。

元は古代ペルシャで信仰されており、最盛期には国教に上り詰めましたが、ペルシャがイスラム教化された結果、イスラム教に転向しない者はその身を追われ、インドに逃げ延び、ペルシャ人を意味するパールシーと呼ばれることになります。

この辺りは作中でもフレディの父親が言及していますね。

インドにおけるパールシー

フレディが幼少からピアノを習っていたり、寄宿学校に行っていたりするところから推測できるように、フレディの幼少時のバルサラ家は非常に裕福に見えます。

これは元々パールシーの人々は知識階層が多かったこと、英国統治下のインドにおいて、重用されていたことに由来します。

ヨーロッパにおける植民地統治において、宗主国の民族が直接支配するのではなく、現地の少数派に特権を与え重用する手法を取ることがあります。

支配者を植民地内の人間にすることで、反抗心を植民地内で完結させることができ、宗主国への反発が少なくなるためです。

ポール・プレンターの出身国であるアイルランドでもプロテスタントの優遇という形で行われていました。

パールシーは異教徒(インド国内のヒンズー教徒など)と交わらず信仰を貫いていたため、祖先のペルシア人=白人の血統を保っていたことも重用された要因でしょう。

パールシーは未だ自分たちはインド人ではなく、ペルシャ人であるという自負心を強く持っており、映画では空港でパキ野郎と呼びかけられ、フレディが『パキじゃない』と律儀に否定するシーンにもそれが現れています。

ゾロアスター教徒にとっての同性愛

フレディ・マーキュリーことファルーク・バルサラの父、ボミ・バルサラ氏は生まれた子供が息子だったことを大いに喜びます。男子の誕生はパールシーにとって重大な意味を持つからです。

さて、ゾロアスター教徒にとっての聖典『アヴェスター』には同性愛について、このように悪魔崇拝と結びつけています。

男が女と、あるいは女が男と眠るように男と眠る男は悪魔である。悪魔の眷属であり、悪魔の情婦である。

善悪二元論を掲げ、最後には膳が勝利すると説くゾロアスター教にて、明確に悪側と定義されています。

これだけならば聖書にも似たような記述があるのですが、ゾロアスター教はゾロアスター教徒の両親、または父親がゾロアスター教徒の場合のみ、教徒になることができる(母親が教徒であっても子供は教徒として認められない)という血統制限があります。

信徒を増やすためには、息子が子供をもうけなければならない。その辺のパールシー事情は、序盤、スマイルのライブにでかけていこうとするフレディが、「友達」と言うのに対して、すかさず「女の子?」と問いかけ、フレディがメアリーと父親を自宅に招いた時に「女の子を連れてくるのを待っていた」と言う母親から伺い知ることができます。

ゾロアスター教徒にとって、ゲイであることは自身が悪魔の使いであると認め、紀元前から続く信仰を自分の代で途絶えさせることを意味しているのですね。

そして、悪魔と言えば、ボヘミアン・ラプソディのオペラパートではイスラムの聖句『ビスミラ』に混じり『行かせてやれ』『行かせるまい』と善と悪が言い合う部分があります。

どことなくイスラム教に国を追われたパールシーを想起させる部分ですが、『行かせてやれ』は次第に『僕を行かせてくれ』という願いに変わり、『ベルゼブブが悪魔を隣に寄越しているんだ、僕のために、僕のために』と悪魔に魅入られているとも、悪魔から逃れようとしているともつかない叫びで、最高潮に達する。

フレディがいつ頃から自分の性癖を自覚していたかは定かではないですが、深読みをせずにはいられない部分です。